太宰治エピソード

太宰治にはいろいろなエピソードがあります。

芥川賞に関する川端康成や佐藤春夫のエピソード、三島由紀夫とたった一度の邂逅場面のエピソード、数々の女性との交際や心中事件……枚挙にいとまがありません。

このページでは、その中のいくつかをご紹介します。

■「生れてすみません」は盗作?

太宰治の有名な言葉の1つ、「生れてすみません」。

「二十世紀旗手」のエピグラフとして使用されていますが、じつは、この言葉、盗作だというのです……。
では、そのことを暴露したのは、誰かというと、なんと友人でもあった山岸外史(評論家)。その著作『人間太宰治』の「“生れてすみません”について」で次のように書いています。

「ぼくはふと太宰に〈生れてすみません〉というこの一句の話をはじめたのである。その題は、〈遺書〉で、ただの一行だけの詩であった。ぼくの従兄弟の寺内寿太郎の作品であった。」

この寺内という人は詩人を目指していたようで、山岸にその詩を見せ、それを後日、山岸は太宰に話したといいます。そして、「二十世紀旗手」が発表されると、寺内は「『これはどうあっても、外史君が関係している。それ以外に、太宰治にあの詩がつたわるはずがない。君の責任を問う』」と怒り心頭になったようです。さらに

「『あれは、太宰の盗用だと発表しよう』」

と言い始め、それを山岸が必死になってやめさせたということです。これに対して、太宰は言い訳をしたらしく、「『じつは、いつとはなく、あの句は山岸君のかと錯覚するようになっていたのですよ』」と。その後、寺内は憂鬱症が高じ、行方不明になった、と山岸は書いています。

■「走れメロス」には、原典のほかに、実話エピソードがある?

太宰治の代表作の1つ「走れメロス」。そもそも、この小説は、シラーの「担保」という詩が原典といわれています。しかし、太宰の友人・檀一雄(小説家)は、著作『小説 太宰治』のなかで、次のように書いています。

「『走れメロス』という太宰の傑れた作品を読んで、おそらく私達の熱海行が、少くともその重要な心情の発露になっていはしないかと考えた。」

と。では、その「熱海行」とはどういったものだったのでしょう。

あるとき、檀の家に、太宰の内縁の妻・小山初代がやってきました。初代は太宰が熱海にいるから、お金を持っていってくれないか、と持ちかけ、檀は承知します。熱海に着くと、檀は太宰にお金を渡すも、飲んだりして使い果たしてしまいます。そこで、太宰は、

「『菊地寛の処に行ってくる』」

と言って、檀を宿に置いて、1人で東京に戻ってしまうのです。しかし、いつまで経っても、太宰は戻ってきません。宿の主人に許可を取り、檀は東京に戻り、太宰を探します。すると、太宰は師匠の井伏鱒二(小説家)のところにいるというではありませんか。日頃、太宰には怒らない檀もさすがに怒り、

「『何だ、君、あんまりじゃないか』」

と詰め寄ります。井伏も何事かと心配しますが、檀と2人きりになったときに、太宰はこう言いました。

「『待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね』」

檀は、最後に、

「あれを読むたびに、文学に携わるはしくれの身の幸福を思うわけである。憤怒も、悔恨も、汚辱も清められ、軟らかい香気がふわりと私の醜い心の周辺を被覆する」

としめくくっています。

■「富士には、月見草がよく似合う。」のシーンはフィクション?

太宰治の代表作の1つ「富嶽百景」。そのなかで有名なのが、「富士には、月見草がよく似合う」のフレーズ。甲府の御坂峠には、このフレーズをモチーフにした石碑があるほど知られたものです。

しかし、このフレーズが生まれたシーンは、現実的にはありえないといいます。主人公の「私」は郵便物を受け取りに、河口湖の郵便局にバスで出かけます。そして、帰りのバスで例のシーンが。

「老婆も何かしら、私に安心していたところがあったのだろう、ぼんやりひとこと、『おや、月見草』そう言って、細い指でもって、路傍の一箇所をゆびさした。さっと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残った。」

「富嶽百景」研究のなかで、よく指摘されるのが、この箇所で、完全なフィクションといわれます。それはなぜかというと、月見草は夜に咲く花だからだそうです。ですから、「私」がバスに乗っている時間に、月見草が咲いていることはない、ということです。

しかし、別の説も。じつは、本来、月見草とは白い花であり、「私」が見たのは、「待宵草」という花だというのです。もともと月見草は珍しい花で、あまり目にしないといいます。それで、多くの人が、待宵草を月見草と勘違いしている、というのです。これは日中でも咲いているそうで、有名なのは、竹久夢二の歌で「宵待草」と出てきます。本来、小説はフィクション。太宰文学は「私小説」といわれますが、あくまで小説だということのようです。

■親戚の小舘善四郎にトイレで「初代さんと過ちを犯しました」と告白された?

太宰治の最初の妻といわれる小山初代。じつは、生家の配慮で実際には籍には入っておらず、内縁の妻であったといいます。初代は、太宰文学にもモデルとして登場しますが、太宰周辺の人たちもよく書いています。

山岸外史は、「単純で、艶っぽい町の娘」(前掲書「初代さんのこと」)などと触れています。井伏鱒二は、「琴の記」という短い文章で、太宰と初代が別れた後、初代が中国の青島に行くというので、挨拶に来た、というエピソードを書いています。その初代と太宰が別れた直接的な原因というのが、初代の過ちだといわれます。太宰の「姥捨て」のモデルにもなっている話ですが、山岸はこの出来事をこう書いています。

「その初代さんが失敗したのである。過失をした。(中略)太宰の親戚で、美術学校に通っていたKという青年であったが、初代さんは、この青年と失敗したのである。」

そして、この出来事をこう感想しています。

「それは初代さんの愛情であったというよりも、初代さんのひと夜の過失だったのではないかと思う。」

一方、檀一雄は、前掲書のなかで、

「太宰は人家をよけて西武線よりの方に、どんどん歩き、『初代がね』しばらく悶絶するふうの苦痛に耐える表情で、『姦通したんだ』私は愕然とした。」

そして、その相手を、「柿野要一郎」という仮名を用い、

「柿野は未だ東洋美術の学生だった。初代さんよりずっと年下だ。第一、生活を維持出来るような男ではない。」

と評しています。興味深いのが、山岸も檀もこの出来事に関して、共通した判断をしているところです。

「『だが、一半は君の(注:太宰のこと)責任かも知れないネ』」(山岸)

「しかし、女の生理状態から云えば、当然といえば当然だ。太宰はほとんど連日の来客の為に、事実上の結婚生活をやっていない」(檀)

両者はずいぶん冷静に見ているようですが、これは過去を振り返って書いているものですから、当時、どう感じていたかは、別でしょう。

さて、その相手は、後に小舘善四郎という太宰の親戚だということがわかります。太宰、山岸、檀、そして、小舘の4人で浴衣姿で写っている写真が有名です。小舘は、檀がいうように、画家を志していたようで、その後、自殺未遂をしていますが、青森で絵画活動をし、つい数年前亡くなりました。

NHKの番組では、次のように語っていました。

「太宰とおしっこしているときに、初代さんと過ちを犯したことを告白したんだ。驚いていたよ」

太宰は、小舘が初代と結婚したい、と持ちかけてきたということを明かしていますが、その意志は信用できるものではなかったかもしれません。

■「人間失格」は筑摩書房の古田晁がいたから書けた?

人間失格」というと、いわずとも知れた太宰治の代表作。昭和23年、筑摩書房の文芸誌「展望」6月号から連載が始まりました。

さて、この名作が生まれたのはもちろん太宰の才能の賜物ですが、そのかげには、筑摩書房の創設者・古田晁の尽力があったからでした。古田は、執筆に専念できるよう太宰を缶詰め状態にするため、熱海や大宮などにわざわざ連れ出しました。その甲斐あって、「人間失格」は生まれたといえるでしょう。太宰と古田は、互いに大酒飲み。特に、何かを語り合うこともなく、ひたすら飲み合ったようです。

古田は、太宰の死を予感していたというエピソードもあります。戦後、荒れてきた太宰の生活を変えさせるために、古田は井伏鱒二に、「また御坂峠に太宰と一緒に行ってほしい」と頼み、自ら食料調達に奔走していました。そして、太宰は昭和23年6月13日、三鷹の玉川上水に入水した前日、大宮に古田を訪ねています。しかし、古田は留守でした。

その後、太宰と親しかった編集者の野原一夫は、『回想 太宰治』のなかで、次のように書いています。

「古田さんが井伏鱒二氏にお願いしていた太宰さんを御坂峠に連れて行き静養させたがっていたということを、私は知っていた。しかしそれを言うと、古田さんは照れて横を向くにきまっている。私はただ、『もしかしたら、太宰さんは死なずにすんだと思いますか。』へんな質問だった。『だめだったろうな。』言下に古田さんは言い、眼をつぶった。」

太宰の葬儀で弔辞を読んだ古田は、あまりの号泣で何を言っているのかわからないほどだったといいます。

■太宰治と三島由紀夫、一度だけ会ったその日

太宰治と三島由紀夫は、たった一度だけ会ったことがあります。

三島の太宰嫌いは有名な話ですが、ある部分では、「近親憎悪」があるように思われます。三島がやりたかった文学を、太宰がすでにやってしまった。「仮面の告白」などを読むと、太宰を読んでいる人は、思わず苦笑いを浮かべてしまうのではないでしょうか。

さて、太宰と三島が会った日を知っている方の多くは亡くなり、詩人の中村稔氏のみとなりました。当日、清水一男(早稲田大学の仏文科に通う)の練馬・桜台の家に、太宰と亀井勝一郎が来るというので、中村氏や野原一夫、高原紀一(作家)、矢代静一(劇作家)、出英利(哲学者・出隆の息子で、太宰の弟子)などが集まりました。

三島は、『私の遍歴時代』でこの日のことを触れています。三島は太宰に向かって、

『「僕は太宰さんの文学はきらひなんです」』

と言い、太宰は、

『「そんなことを言つたつて、かうして来てるんだから、やつぱり好きなんだよな」』

と答えたそうです。

ところが、どうもこのシーン、皆それぞれが記憶違いをしているよう……。たとえば、野原は『回想 太宰治』の「練馬の一夜」で触れています。三島が森鷗外について、盛んに話していると、太宰は相手にしなかったようで、三島は例の発言をします。すると、太宰は、

『「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」』

と吐き捨てたとか……。

矢代はというと、『旗手たちの青春』の中で、このシーンを「聞き洩らしている」ようで、しまいには、「誰も聞いた友人はいなかった」のでは? と書いています。

中村氏は、『私の昭和史 戦後篇』で、

席上、三島氏が、太宰氏に向かって、私は貴方の文学を認めない、という趣旨の発言をし、座が白けたことは事実

としています。

もはや、藪の中。ただ、太宰と三島が生前会っていたことは、事実でしょうね、さすがに。

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